顕彰会会報寄稿
 菅茶山顕彰会会報24号記事
 茶山への莫大な恩誼 
   
山陽と玉蘊 結ばれぬ恋の行方

   「黄葉夕陽文庫」には玉蘊・玉葆姉妹の絵も載せた「菅家諸家書画帳」や玉蘊から茶山へあてた年賀のコレクション「玉蘊画帳」がある。

 茶山は玉蘊にとっても「推輓藝場(学問・芸術)上」の恩誼を蒙った恩人・後援者。
新春最初の絵を年賀として届けていたのであろう。文政七年から十年にかけて描かれた六点の絵が巻物として表装されている。
また、「四皓図賛」 (「黄葉夕陽村舎詩」文編四―十七所収)など絹本着色軸装され現代に伝えられている逸品もある。

 玉蘊は尾道で木綿問屋福岡屋を営む父平田新太郎(号五峯)、母峯の二女として誕生。名は豊(または章、号玉蘊)。画技は妹庸、号玉葆とともに、父の師、福原五岳を経て八田古秀に学び、花卉、牡丹を描くことに長けていた。また、詩歌は賴春風の薫陶を受けていた。

 茶山も早くから玉蘊の画才を認め、目をかけていたのであろう。文化三年(1806)には玉蘊(20歳)の牡丹の絵に次の賛詩を贈っている。

   豊女史畫牡丹(巻八)
 国色凝霞彩 
国色(牡丹)霞彩を凝(とど)め
 天香湿露華 
天香 露華(露)を湿(うるお)う
 深閨無限思 
深閨限り無き思い
 畫出牡丹花 
畫き出す牡丹花

「深閨無限思」は逐語的には「玉蘊の限りなく牡丹を愛する思い」であろうが、池田明子著「頼山陽と平田玉蘊」によれば、「この年の12月13日に病歿する父親の病状を憂慮したものと思われる」とも深読みしている。

次いで茶山は文化四年(1807)4月刊行の「黄葉夕陽村舎詩」冒頭を次に詩で飾っている。

   常盤雪行抱孤図(巻八) 
 潜行犯暗雪漫空 
潜行暗を犯す雪は空に漫(あまね)し
 家國存亡在此中 
家國の存亡此の中に在り
 小弟啼飢兄泣凍 
小弟(牛若)は飢えに啼き兄(今若・乙若)は凍え泣く
 誰知他日並英雄 
誰か知る他日並(とも)に英雄

 茶山は玉蘊が父亡き後、残された母妹を抱え画を生業としてけなげなに生きて行こうとする姿に常磐御前の生き様を重ね激励のメッセージに代えたものと解釈されている。

 丁(てい)卯(ぼう)文化四年(1807)9月21日、竹原賴家では家翁・叔翁の法要が営まれ、春水(62歳)、春風(58歳)、杏坪(52歳)三兄弟が安永七年以来30年ぶりにうち揃って郷土竹原春風館に集まった。
24日、春風の勧めで玉蘊(23歳)、玉葆18歳)姉妹も一連の催事に招かれ、初めて山陽(28歳)と対面。25日、龍山照蓮寺書会、26日には、石井儀卿の誘いで床浦(忠海)舟遊を共にした。27日、玉蘊は「竹原床浦図」を描いて竹原を後にした。

一方、山陽は春水・春風の勧めで「竹原舟遊記」を書し「淡粧素服、風神超凡なるものは玉蘊二十三歳」「袨衣靚飾、光艶外射するもんは其妹玉葆なり」と姉妹の印象を語った。
就中、姉玉蘊に理想の女性像を求め、二人は相思相愛の仲になった。

   龍山会題玉蘊女史画牡丹 賴山陽
 絶塵風骨是仙姫 絶塵の風骨是れ仙姫
 却画名花濃艶姿 却って画く名花濃艶の姿を
 應知今夜空門空 まさに知るべし 空門の会
 欲向香龕供一枝 香龕に向いて一枝を供えんと欲す

 この日、山陽は姉妹のためにも詩を贈っている。

   丁卯暮秋遊竹原
 連萼新開木筆花 連萼新らたに開く木筆花(辛夷)
 嬋妍玉浦水之涯 嬋妍たる玉の浦の水之涯
 浦頭風色曾遊地 浦の頭の風色は曾って遊びしの地
 筆下描成寄我家 筆下し描き成して我家に寄す

 長期間の謹慎が明けて間近にする2人の知的で嫋やかな姉妹(木筆花)の画技とそこはかとなく漂う移り香に強烈なインパクトを受けたにちがいない。

 文化六年(1809)9月18日、春水は茶山から山陽を廉塾の都講として招聘したい旨の書状を受け取った。図らずも、一週間後の9月25日、玉蘊23歳は母・妹と廉塾に茶山を訪ねている。そして年の瀬も押し迫った12月29日、山陽が廉塾の門を潜った。

真偽はともあれ、茶山は山陽の廉塾寄寓中の逸話として現在に語り継がれている年齢不相応な言動や「老婆のこまごと申やうに候」事を鬱憤も含め、伊澤蘭軒、それに賴杏坪への書簡に「令兄弥太郎様へはいふてよい事計申可被下候」と断りぶちまけている。

一方、春水は茶山への書簡で「玉蘊と山陽との間を尾道の何某地仙というものが取持ち関係が余程濃厚になっているから警戒してくれ」と依頼している。
 文化七年(1810)9月13日、山陽は今津薬師寺で遊び、夜、尾道まで足を伸ばし2泊している。恐らく玉蘊と逢瀬を楽しんだものと思われる。

 文化八年(1811)閏2月6日、賴山陽が廉塾の塾生三省を伴い神辺を去った。出発の直前、三省は玉蘊の許へ使いに行っている。この事前連絡を承け、桒田翼叔から小原梅坡への書簡に「玉蘊もその後広島の才子を慕い、上京いたし、登々主人などもかれこれ心配もこれ有り候」とあるように、玉蘊は6月ごろ、母・妹を同伴、上洛。8月ごろまで京都に滞在した。

しかし、「姻事諧はずして終にその郷に帰り、爾後、これを恥じて再び京に至らず」。山陽とすれば、今回の衝動的な上洛を再度の脱藩騒動と受け止められかねない危機を回避するため、やむを得ない対応であったが、結果的に玉蘊「実に背きしまいぬ」結末を迎えた。

10月28日、平田玉蘊が来訪、茶山に江馬細香筆の磁盃を贈った。
皮肉にも、それから2年後の文化10年10月、山陽は玉蘊との艶聞に災いされ、帰郷が叶わず、尾張、美濃方面を旅行した。
大垣で藤江藩医江馬蘭齋に娘細香に引き合わされ一目惚れ、玉蘊と同じ「淡粧素服」に加え「風韵清秀」の賛辞を贈り、結婚を申し込んだが、父蘭齋の猛反対で果たさなかった。

しかし、正妻梨影の表面的には兎も角、心穏やかならざる心情をよそに終生親密な師弟関係を続けた。

   玉蘊画西施五湖図(後巻四)
 西施仍艶容 西施なお艶容
 范蠡未衰老 范蠡未だ衰老せず
 同是沼呉人 ともに是れ呉を沼にせし人
 成功何許早 功を成すこと何ずれが早きか

 文化九年(1812)、茶山は玉蘊の絵に賛詩を詠んだ。さしずめ、傾国の美女、西施に玉蘊を、范蠡に自らを重ね、山陽への鬱積した意識下の怨嗟を無意識の中に詩に託したものと思われる。

 文化十一年(1814)5月、山陽は江戸出府途上の茶山に会い許しを得、石場まで見送った。

   勢田途上
 蹄輪絡繹路弯環 蹄輪絡繹路弯環
 不識何邊送者還 識らず何れの邊をか送者還る
 只有恨人行且顧 只恨人の行きて且つ顧みる有り
 満湖烟雨暗逢山 満湖(琵琶湖)の烟雨逢山を暗うす

 この詩に「是日與送者別干石場」の注がある。「恨人」(送者との別れを惜しむ者=茶山自身)「送者」(=山陽、武元登々庵)、
他の詩のように姓名を敢えて明示していない。このことで、和解に応じたとは云いいながら、茶山の収まりかねている心情が見え隠れしていると山陽自身も推察している。

8月23日、父春水病気見舞いのため、上京後初の帰省。神辺へ出立以来、実に57ヵ月ぶりの広島であった。20日間余の広島滞在、妾梨影の存在と妊娠を告白している。
その後竹原を経て9月22日、尾道へ。数日間の滞在中、玉蘊と会っている。
この頃、尾道に後に玉蘊の「良人」となる「伊勢の白鶴鳴という蕉門の美少年、画も少し出来申し候が筆端にて挑み」、やがて玉蘊と結ばれたらしい。

 文化12年2月26日、茶山は江戸出立、3月13日、山陽と北野天満宮に参詣した後、紙屋川を渡って平野神社で櫻見物、翌14日、木屋町の送暉楼で開かれた送別会に招かれ山陽や武元登登庵らと交流。

3月29日に帰郷しているが、出発に先だって在府中頻繁に交流のあった蘭軒の姉幾勢からの餞のお返しに「御入用候はば(尾道女画史豊の絵を)またさし上げ可候」と云っている。ここで鴎外は「竹田荘師友画録」の記述を引用、豊とは他ならぬ玉蘊と推測している。

 文化12年、景譲が26歳の生涯を閉じた。4月7日、広島着、帰京途、尾道に立ち寄っている。玉蘊と会ったかどうか分からない。

同年9月、玉蘊は広島に滞在。22日、杏坪が尾道に帰る玉蘊のため送別の宴を開いた。その席に春水・静子夫婦が同席している。不実な息子山陽に成り代わっての贖罪の念が籠められていたものと思われる。

 文化12年10月5日、茶山は尾道に女画史(玉蘊)及び山田を訪ね、油屋で昼食後、亦た来た女史と出会っている。

 文化13年(1816)1月11日、茶山の日記に「玉蘊女史、其の良人鶴鳴を携えて来り,二物を恵む」

 文政二年(1819)2月、「西遊記」の旅を終えた山陽は母静子を伴って上京途次、尾道に立ち寄り、竹下の求めに応じ、「題玉蘊画」を記す。
5月13日夜、山陽は母を広島まで送った帰り、広村に立ち寄り、そこから舟で尾道へ。この折、「為女玉蘊題其所弆古鏡」を詠み、翌年、竹下への手紙にこの詩を紹介している。所々錆びついた古鏡に山陽との恋に破れた玉蘊を孤鸞として配し、玉蘊の傷心を憐れんでいる。

   為女玉蘊題其所古鏡
 背文緑繍雑珠斑 背文緑繍 珠斑を雑う
 猶覺銅光照膽寒 猶覺ゆ銅光膽を照らして寒きを
 一段傷心誰得識 一段の傷心誰が識るを得ん
 凝塵影裡舞孤鸞 凝塵影裡孤鸞舞う

 茶山はすでに廉塾で良人白鶴鳴の訪問を受けていることから、「孤」の表現を「要らぬお節介」として挑発している。

 文政八年(1825)8月、賴杏坪らが編纂した「藝藩通誌」159巻が8年の歳月を費やして完成した。そのなかに、菅茶山、江芸閣(清国の商人)、賴杏坪の3人が玉蘊が生涯大事にし手放さなかった古鏡の歌を掲載した。
 就中、杏坪のそれは長編古詩(三十聯)なので、紙面の都合上、要約すると、「かって尾道に豪商がいたが、没落。品格のある「古鏡」だけが残った。落ちぶれた玉蘊という娘が母に仕え独身を通している。年を経るにつれ彩色画の技が冴え、その名声が全国に轟くようになっている。白い華奢な手でよくもあんな力強い絵が描けるものだ。
時期を同じくして亀山士綱によって編纂された「尾道志稿」には賴山陽も前述の古鏡歌を寄稿している。

 結婚運にこそ恵まれなかったが、こうした多くの著名人に讃歌、否、応援歌を贈られ、寛政二年(1855)6月20日、69歳の生涯を閉じた。歿後、尾道持光寺の墓石は初恋を裏切った山陽の依頼で宮原節庵が筆を執っている。

参考図書 「賴山陽と平田玉蘊 池田明子 亜紀書房 1996年」
       「賴山陽と女弟子たち 北川勇 昭和60年」
                                                ( 上  泰二 )